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保存会の発会式

 投稿者:うさぎメール  投稿日:2004年 9月27日(月)18時08分36秒
  今晩は。 やっと・・・保存会の正式発会ですね。第一段階突入というところでしょうか。
今後の潜水調査の為にも越えなければならない関門、この後は「例の物」の調達・訓練、
先は長いですね、、。  とりあえず目途が立って良かったです。

これから水温の低下と共に透明度・透視度が上がりますので、
晩秋以降調査がし易くなりますよう願っております。 
 
 

海底遺跡保存会の正式発会

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 9月25日(土)19時48分35秒
  来る10月25日に茂在先生、イワクラ学会副会長 鈴木 旭氏を迎えて正式発会式を行います。
詳しくは後日発表致します。
 

ご苦労様でした(^^)

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 9月13日(月)17時11分19秒
  多賀城に入って来たのですね。
歴史書に残る航海記録によると、兵庫の難波津を出て5ヶ月掛かって多賀城に入ったとも
記録が有りますが、なんと5ヶ月とは異常に長過ぎます。
この時の船がどの様な形の船かが気になりますね~(^_^)
熱海→阿田美の湊は熊野大社の資料によっていずれ解明されますが、相当の資料に埋もれて
いますので気を長くして待つしか有りません。

蝦夷征伐の基地には違いは有りませんが、その時の守護神は熊野神と伊豆大神との事、更に
青森(遠野地方)攻めでの守護神は伊豆大神だそうです。

それから、碇石の石は江戸慶長時代の始めまで使っていたらしいのです。で、元禄期辺りから
鉄製の碇になったとも・・・。
ただし、外国からの船の碇は早くから鉄製の可能性は有りますね。
 

きのう多賀城にいってきました。

 投稿者:じゅんこメール  投稿日:2004年 9月10日(金)01時02分50秒
  東北歴史博物館が国府多賀城にあるのでいってきました。
陸奥出羽国郡工程全図という陸・海の道をかいた地図が
ありました。付設の図書館で東北の水上交通の歴史に
関係しそうな本をあたって、年表(日本史オンチの
私用)、「古代東国の水上交通」(中村太一)、「中世陶器
の流通」(赤羽一郎)をコピー、売店で「日本の船を
復元する」学研を買ってきました。

熱海に沈んでいるような碇石を使った木製のいかりは鎌倉
時代までくらいで、その後は鉄製の碇が使われるように
なったらしい。元寇の時の九州に沈んでいる碇石に
比べて熱海のはもっと小さいですけど、船の大きさ
はどのくらいになるのでしょうね。律令制の頃は陸奥国は
国府のある多賀城の港が物資や蝦夷征伐の兵士を運んだり
する拠点になったのかしら。渥美半島の陶器が出土
しているけど、どのように運ばれたのでしょう?平泉の藤原氏
の宋との交易はどのような経路で行われたのでしょう。
そういえばこれは江戸時代かもしれないけど、博物館に
長崎経由中国に輸出されたナマコ、フカヒレ、アワビの
干物が俵物として展示されていて、中国料理の材料を日本から
輸出していたという事実にびっくり・・・個人的には
面白かったけど、熱海とのつながりはまだまだみつかり
そうにないです。わき道にばかりいってしまう。
 

そうなんですか!?

 投稿者:じゅんこメール  投稿日:2004年 9月 1日(水)22時51分8秒
  神社についての基礎知識がないので、まだどこから手を
つけたらよいかわからないのですけど。そうなんですか。

仙台から釜石の間というとリアス式海岸で、良い港があった
可能性は高そうですね。ずっと後の話で直接関係ないですが、
1613年に支倉常長がメキシコに向け出航した石巻の先の
月浦湾に博物館サンファン館を建設するとき、月の浦に
ダイバーが潜って遺構らしきものを探したけど何も
みつからなかったそうです。

 

です! ですね(^。^)

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 9月 1日(水)12時38分2秒
  東北地方は蝦夷征伐の歴史でも有ります。
まず、下総地方を攻める時に鹿島神と香取神を戦いの神として祀り、宮城辺りの戦では
熊野神を祀り、更に伊豆山神を祀りますが青森に入ると伊豆山神を中心に祀っています。
蝦夷との最後の戦いとして伊豆山神を祀るその本意が知りたいですね・・・。

征夷大将軍としての坂上田村麻磨との戦いで結果的に和議を受け入れる事で津軽地方の
安泰を図って行く。この蝦夷とされる人々は元を正せば同じ系列の大和王朝の継承権を
持つ者達だったのです。この事が日本を2つに分かつ歴史が残る事となります。

仙台から釜石とその周辺には古い湊が沈んだと言う伝承の残る場所が有ると聞いています。
この辺も知りたいですね(^。^)
 

気長にやるしかないですねぇ。

 投稿者:じゅんこメール  投稿日:2004年 9月 1日(水)10時44分37秒
  東北地方と伊豆との繋がりを海上輸送面で探すのはとても
難しそうです。7,8世紀の朝鮮半島の国の興亡に
かかわる大陸と海上交流など、東北日本海側の海上交流
の歴史は目眩めく記録が多いですが、太平洋側については
資料が乏しいです。「東北の交流史」によれば古代律令
政府が定める公租米の都への海上輸送規定では、日本海
側からは出羽のからも認められているが、太平洋側は
駿河国までだったとか。

百済王敬福と奈良の大仏については、石巻文化センターで
東大寺長老である平岡定海という方の文をコピーしていただいて
きました。百済の滅亡により多くの百済人が日本に移住して
きて、大和朝廷が彼らを国司として地方経営にあたらせた
こと、滅亡した百済王の人質としてきていた王子の4代目に
あたる敬福は中でも朝廷の覚えめでたく、中央で出世したことが
わかります。
 

じゅんこさん お疲れ様です(*^_^*)

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 8月29日(日)16時02分31秒
  どの様に伊豆との繋がりが有ったか? また、どの様に太平洋側を航海したかが問題なのです。
百済王敬福は朝鮮半島から渡来したのですが、白村江の戦いで敗れたのがきっかけです。
更に疑問と思うのは百済人が陸奥の国司になり、成れた事でしょう。

色々と情報を集めて下さいね。
 

石巻にいってきました。

 投稿者:じゅんこメール  投稿日:2004年 8月28日(土)21時10分56秒
  きょう、気になっていた石巻の文化センターの
「大河と海上の道」を見に行ってきました。
宮城県では江戸時代は石巻が一番大きな港
だったようです。その昔は不明です。
あまり昔の海上輸送に関するものはなかったの
ですが、天保11年(1840年)につくられた
宮古から伊豆半島までの航路案内図「改正東海
舟程全図」がありました。石巻から荒船、平潟、
那珂、銚子、小湊、江戸へと行くルートの他、
石巻から江戸へ直行するルートもでています。
江戸と伊豆を結ぶルートは江戸、三崎、網代
川名、下田となっていました。しかし、伊達
正宗が伊達政宗が北上川を改修させ、ベザイ船
(千石船)を造らせて江戸に米を売るようになる
までは、太平洋は波が荒いため海上輸送が
難しかったようです。

752年に陸奥の国司であった百済王敬福が奈良の
大仏塗金のために金900両を貢納したという
話については、この金を産出した涌谷町に
「天平ろまん館」という博物館があり、平成6年に
特別展示を行った際の特集パンフレット「黄金産金
遺跡」がありました。しかし、金900両というのは
舟で運ぶほどの量ではなかったようです。

あまり役にたちそうにないですが、とりあえずそんな
ところでした。
 

ありがとうございました、拡大表示読めました!

 投稿者:うさぎメール  投稿日:2004年 8月25日(水)00時44分26秒
  今度は読めました。ありがとうございました。   

拡大表示 !!

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 8月24日(火)23時55分47秒
  新聞の面にマウスのアローを乗せると右下側に拡大表示のマークが付く筈なのですが!?  

ん~・・・

 投稿者:うさぎメール  投稿日:2004年 8月24日(火)23時51分41秒
  くにつぐさん、今晩は。
文字のサイズを最大にしても、ほとんど変わりません。。。
できうれば、テキスト部分だけでも別に掲載してくださいましたら助かります。
記事はそのままで、本文のみを別に掲載、はいかがでしょうか?
 

うさぎさん 直してみましたが・・・!

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 8月24日(火)23時17分1秒
  どうでしょうね(^_^;) 確認してみて下さい。  

読売新聞ひと模様

 投稿者:うさぎメール  投稿日:2004年 8月21日(土)00時15分27秒
  今晩は。題記の件ですが、今一つ新聞記事が読みづらいです。
解像度をもう少し上げていただくことはできますでしょうか?
 

8/7日 伊豆山ダイブ

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 8月10日(火)07時38分14秒
  久し振りに伊豆山へ潜りました。
ファンダイビングでしたが、予想以上に碇石が沈んでいます。
早く調査が出来ると良いのですが・・・。
 

ご無沙汰してました(^^ゞ

 投稿者:H.Kunitsuguメール  投稿日:2004年 7月29日(木)18時43分8秒
  こだいファンさん こんばんは 綺麗な写真ですね(^^)

伊豆山の七尾からなら、阿田美(阿多美)港は良く見えてたでしょうね!
また、その先が網代ですから、はるか昔はカルデラとしての半島状に初島まで延びていた
様子が伺えます。
台風10号で海は潜れません(ーー;)
28日に台湾の中華水下考古学会の理事長 謝 新曦氏を熱海の海底遺跡案内で潜る予定だった
のですが、うねりがひどくて潜れませんでした・・・・・。
当然、奈良大学院生も海洋に出れずにプールの練習で終わってしまいました。
 

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